小説ラジオ「祝島で考えたこと」(高橋源一郎さんのツイート)

なかてぃヨーコ

2011年12月13日 04:19

みなさま、師走に入り、皆既月食もありましたが、いかがお過ごしでしょうか。
私の住む葛川は初雪が降り、今も雪が残っています。

4月より葛川の古民家に住み始めて、
今までの博物館の屋外展示での昔くらし体験に加えて、
大石富川と葛川で古民家くらし体験を始めて、
地域に残る「ふるさと」の良さにふれ、
改めてそれを受け継ぐ大切さに気づきました。

そんな中、
Twitterで心に響くツイートがあったので掲載しておきます。

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高橋源一郎さん@takagengen
→ 祝島は「中国電力・上関原子力発電所」への反対運動を30年も続けている島です。ある理由があって訪ねました。そこで感じたのは、予想とちがったものでした。うまく説明はできません。島を歩き、島の人たちと話しながら、ぼくは、「原発」とは関係のない、けれども、ぼくにとってひどく切実なことを考えていたのでした。

本日の予告編① 今日、一月ぶりに「午前0時の小説ラジオ」をやります。少し、元気になってきたので、これから、ぼちぼち続けてやれるようにしたいと思っています。
takagengen 2011/12/11 21:59:49

本日の予告編② タイトルは「祝島で考えたこと」です。ごぞんじの方も多いと思いますが、祝島は「中国電力・上関原子力発電所」への反対運動を30年も続けている島です。ぼくは、先月、ある理由があって訪ねました。そこで感じたのは、予想とちがったものでした。
takagengen 2011/12/11 22:03:04

本日の予告編③ うまく説明はできません。島を歩き、島の人たちと話しながら、ぼくは、「原発」とは関係のない、けれども、ぼくにとってひどく切実なことを考えていたのでした。そのことについて、また即興でツイートしたいと思います。それでは、後ほど、午前0時に。
takagengen 2011/12/11 22:04:58

午前0時の小説ラジオ・祝島で考えたこと① 山口県上関町祝島へ行った。映画「祝の島」や「ミツバチの羽音と地球の回転」でとりあげられた、原発建設反対運動を30年以上続けている小さな島だ。僅か二日間の滞在、ただの通行人の感想を言いたい。ぼくはとても強い、強い印象を受けたのだ。
takagengen 2011/12/12 00:00:02

祝島② 祝島は「反原発運動」の聖地のようにもなっている。けれども、そこを訪れた人なら、誰でも、そこでは「原発」のことなど、小さな問題であるような気がしてくるだろう。もっとべつの、ずっと大切ななにかが、そこにはあるように、ぼくには思えた。
takagengen 2011/12/12 00:01:49

祝島③ 反対運動が始まった30年前の島の人口は1100人。そして、いまの人口は470人程度。島は毎年、正確に25人程度ずつ、人口を減らしてきた。日本の「地方」と呼ばれる場所なら、どこにでもある、「滅び」への道をまっすぐ歩む「過疎」の村だ。でも、この「滅び」は、なんだか明るい。
takagengen 2011/12/12 00:03:48

祝島④ 30年続く、毎週月曜午後6時半からの「反原発デモ」。参加するのは、7、80人ぐらい。70代以上のおばあさんばかりが目につく。高齢化が進み、デモの距離も時間も短くなった。ざっと25分。狭く入り組んだ、家と家の間の、街灯なんかなく真っ暗な細い道を、老人ばかりのデモ隊が行く。
takagengen 2011/12/12 00:07:13

祝島⑤ デモをしながらおばあさんたちは世間話に花を咲かせる。「今日の晩御飯、なに?」「腰が痛くて痛くて涙がでるわ」「××さん、休み? どこか悪いん?」そして、時折思い出したようにシュプレヒコールをあげる。「故郷の海を汚させないぞ!」そしてまた「あっ、テレビつけっぱなしや!」
takagengen 2011/12/12 00:10:08

祝島⑥デモコースは決まっているので、家の軒先からエプロン姿に鉢巻きをしたおばあさんが、手を拭きながら飛び出してくる。「ちょっと待ってえ、掃除しとったから」。と思うと、別のおばあさんがデモの隊列を抜け出して、「お米炊かなきゃ」といいながら、家の中に入って行く。
takagengen 2011/12/12 00:12:23

祝島⑦祝島のデモは次の三つの場合、中止になる。(1)雨の時(老人にはつらいから) (2)風が強い時(老人にはつらいから) (3)参加者やその家族に不幸があった時(老人が多いから) これが、この、島の「デモ」だ。
takagengen 2011/12/12 00:14:28

祝島⑧ 時々は、原発建設を目指す中国電力の本社がある広島まで出かけてデモをすることがある。その時、リーダーの藤本さんが「デモ申請」の他にしなきゃならない仕事は、おばあさんたちがデモの帰りに買い物をする百貨店やショッピングセンターのレジを臨時に増やしてもらうことだ。
takagengen 2011/12/12 00:16:52

祝島⑨ 帰りのフェリーの時間が決まっているので、デモから買い物へと流れるようにスケジュールを組む必要がある。娯楽の少ない島のおばあさんにとって、広島でのデモの帰りの買い物は大きな楽しみなのだった。
takagengen 2011/12/12 00:18:19

祝島⑩ 血を流すような激しい場面もあった。十億という大金を積まれたこともあった。だが、30年かけて、この島では、「デモ」というものを完全に咀嚼し、自分たちの体の一部分にしてしまったのだ。いつしか、それは、この小さな社会を生きて動かしていくために必要な血管のようなものになっていた。
takagengen 2011/12/12 00:20:39

祝島⑪ 島に独り暮らしの老人が多い。ぼくが泊まった宿の女将さんもそう。泊まった時、女将さんは体調を崩して寝ていた。「すいません、世話もできずで」「お構いなく」とぼくはいった。夜になると、下の階にある台所が騒がしかった。近所のおばさんたちが、晩御飯を作りに来てくれていた。
takagengen 2011/12/12 00:22:59

祝島⑫ 弱った人、老いた人、病んでいる人のところへ、近所のだれかがやって来る。誰かから命じられたわけでもない。「それが当たり前」だからだ。でも、助けに来る人も、すでに老いている。老いた人が、老いた人の手を引く、そういう共同体が、そこにはある。
takagengen 2011/12/12 00:25:18

祝島⑬ これはDVDで見た光景だ。78歳で独り暮らしをしながら米を作っている平さんは、毎晩、近所のやはり独り暮らしのおばあさんのところへ行ってコタツに入り、だらだらと話をする。他にも、そんな独り暮らしの老人たちが数人。声をひそめて話しながら、夜がゆっくり更けていく。
takagengen 2011/12/12 00:27:34

祝島⑭ いつの間にか、コタツに入ったまま寝てしまったおじいさんに、別の老人が声をかける。「風邪をひくよ。はやく、いえに戻んな」。大晦日には、そうやって、コタツに入ったまま「紅白歌合戦」を見ながら、静かに新年を迎える。老人たちばかりが、ひっそりと背中を丸めて。
takagengen 2011/12/12 00:33:22

祝島⑮ 島の南側は切り立った断崖が続く。その急な斜面に、島の人たちは蜜柑や枇杷を植えている。ぼくは、少しずつ昇って行く村道に沿った「段々畑」の間を歩いた。どの畑でも、働いているのは、老人で、そして独りだった。蜜柑の詰まった重たい箱を横に老いて、道に座りこんでいるおじいさんがいた。
takagengen 2011/12/12 00:36:04

祝島⑯おじいさんは「どこから来た?食うか?」といって蜜柑をくれた。ぼくは、来る途中、いくつもの、耕作を放棄された畑がある理由を訊ねた。するとおじいさんは、「耕す者が亡くなると、あとを継ぐ者がいないからね」と答えた。そして「みんな、原野に戻るんだよ」と。
takagengen 2011/12/12 00:38:29

祝島⑰畑の間の道を登り詰めると、その最奥、もっとも高い場所にたどり着く。そこが、平さんの「棚田」だ。城壁のような壁によって、何段も、高く積み上げられた田んぼがあった。それは、平さんのおじいさんが、40年かけて、山の石を切り落としながら、たったひとりで作ったものだ。
takagengen 2011/12/12 00:41:07

祝島⑱三段目の田んぼは今年から耕すことをやめた。平さんにはもうそんな体力が残っていないから。遥か上には、未完の「棚田」が、まだ二段ある。でも、それが完成することは、ない。「田んぼを継ぐ者はもういません。あとは原野になるだけです」。平さんも、同じことをいうのである。
takagengen 2011/12/12 00:43:32

祝島⑲平さんのおじいさんは「子孫たちが飢えないように」と願い、後半生を田んぼ作りに費やした。平さんも、島を出た子どもや孫たちのためにいまも米を作り続ける。字の読めないおじいさんにお話を読んであげるのが、小学生の平さんの仕事だった。でも、その役目をしてくれる孫は平さんにはいない。
takagengen 2011/12/12 00:46:12

祝島⑳ぼくは、ひどく不思議な気がした。ぼくの母親の故郷は同じ瀬戸内の尾道、その近隣の農家が、ぼくのルーツになる。90歳を超えて、なお農作業をしていた曾祖母は「ばあちゃん、なんで働くン?」と訊ねられた「曾孫に食べさせたいから」と答えた。ぼくはその曾孫のひとりだったのだ。
takagengen 2011/12/12 00:48:16

祝島21・父親の故郷は宮城県仙台、彼の両親は、田舎を捨て都会に出た。ぼくの両親もまた、農業や農家や田舎を嫌った人たちだった。その封建的な息苦しさに我慢できなかったからだ。彼らは、「自由」を求めて都市へ出た若者たちだった。だから、ぼくは、そんな彼らの末裔になる。
takagengen 2011/12/12 00:51:04

祝島22・祝島に来て、そこで静かに働き続ける老人たちを見て、ぼくは、ぼくが見ないようにしてきた、そこに戻ろうとは思わなかった、忘れようとしていた、曾祖母たちを思い出していた。着ている服、ひび割れた手のひら、陽にやけた顔つき、人懐こさ。どれも、ぼくが知っているものだった。
takagengen 2011/12/12 00:54:03
Content from Twitter

祝島23・「帰っておいでよ」曾祖母たちは、よくそんなことをいっていた。でも、ぼくは戻らなかった。いろんなものをよく贈ってくれた。みんな、ダサかった。だから、両親に「こんなものいらないよ」といった怒られた。その人たちが死んだ時も戻らなかった。ぼくは、田舎を捨てたのである。
takagengen 2011/12/12 00:55:35

祝島24・だが、「田舎」を捨てたのは、ぼくだけではないだろう。都市が田舎を、中央が地方を捨ててきたのだ。晩年、母親は「最後は田舎に戻りたい」といっていた。「お金は心配しないで」とぼくはいった。母親は淋しそうだった。そんなことは問題ではなかった。戻るべき田舎は消え去っていたから。
takagengen 2011/12/12 00:57:41

祝島25・祝島は、幸福感に満ちあふれた場所だ。けれども、ぼくは、同時に、耐えられないほどの、深い後悔の気持に襲われ続けた。ぼくは、ただ恥ずかしかったのだ。ぼくが捨てた人たちのことを思い出さざるをえなかったから。
takagengen 2011/12/12 00:59:37

祝島26・祝島の「反原発」運動は成功するかもしれない。それでも、そう遠くない未来、この島に住む人たちはいなくなるだろう。だとするなら、こんなところには希望がない、といえるだろうか。それは、ぼくたち都会に住む者の傲慢な論理ではないのか。
takagengen 2011/12/12 01:02:11

祝島27・祝島は、みんなで手をつないで、ゆっくり「下りて」ゆく場所だ。「上がって」ゆく生き方だけではない、そんな生き方があったことを、ぼくたちは忘れていたのだ。それは、確実に待っている「死」に向って、威厳にみちた態度で歩むこと、といってもいい。
takagengen 2011/12/12 01:04:08

祝島28・そこで手をつないでいるのは老人ばかりで、でも、その内側には、守られる雛鳥のように、小さな子どもたちが、ほんの少しだけ歩いている。
takagengen 2011/12/12 01:05:24

祝島29・「祝の島」に、全校生徒2人の小学校に、たった1人の新入生の入学式のシーンがある。そこには、たくさんのおばあさんたちも出席している。その子は「みんなの孫」なのだ。島の人たち全員によって、守られ、愛されるべき存在なのである。
takagengen 2011/12/12 01:06:57

祝島30・ぼくは結局、祝島のように場所では、生きてゆくことができないだろう。そこは、ぼくにはもう、単純すぎるし、清冽すぎる。ぼくは、ぼくの知った「自由」に「汚染」されてしまっているから。けれども、この場所にいると、ぼくの中に、どうしても否定できない思いが溢れるのである。
takagengen 2011/12/12 01:08:45

祝島31・それは、ほんとうは、ずっと前から、ぼくも知っていたものだ。そして、忘れようとして、忘れずに残っていたものだ。そのことを思い出すためには、この場所が必要だったのである。
takagengen 2011/12/12 01:11:02

祝島32・世界中にそんな場所がある。若者たちはみんな「外」に出ていく。でも、残され、捨てられてもなお、その場所に残り、出て行った者たちのことを忘れず、愛と呼ぶしかないものを贈り続ける人たちがいるのだ。
takagengen 2011/12/12 01:14:25

祝島33・ぼくはただ頭を垂れたい。なにに向ってかは、わからないにしても。以上です。今晩は、聞いていただいて、ありがとう。
takagengen 2011/12/12 01:15:19

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ふるさと絵屏風づくりを始めた上田洋平さん(滋賀県立大)は、
8月の上丹生(米原市)での絵屏風完成披露会の席で、
唱歌「ふるさと」の替え歌で「志を果たしに、今こそふるさとへ帰ろう」と
お話されました。

私も深くそう思い、日々実践しています。

後悔はしたくない。
先人が築き、我々のために残してくれた「ふるさと」を
縁があって集った方々とともに、次代へつなげていきたい。

それは辛いことでも難しいことでもなく、
代々のご先祖さまがやってこられた
当たり前で楽しいことなのです!


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