2012年01月08日
近江昔くらし倶楽部の活動の原点・冨江家のくらし紹介
琵琶湖博物館の常設展示「農村のくらし」コーナーは、
われわれ近江昔くらし倶楽部の活動の原点です。
彦根市本庄町の冨江家を移築し、昭和39年5月10日の様子を
忠実に再現したこの展示からは、
水道がなかったころの
自然の理にかない無理がなく、無駄がなく、全てを活かしきるゴミの出ないくらし
の様子がよくわかります。
このブログで、その様子を詳しく紹介しようと思いつつ、できずにいましたが、
昨年、みずのわ出版より刊行された『里海の自然と生活』の中で
私が分担執筆した原稿を、ここに掲載して、紹介することにしました。
#快諾くださったみずのわ出版さまに感謝します!
新しい年を迎えて、気持ちも新たに
「かつて」から学び、「いま」を見直し、「これから」を創る
近江昔くらし倶楽部の活動を進めていきたいと思います。
みなさま、どうぞ、よろしくお願いいたしますね!
× × ×
4 琵琶湖の生活世界-琵琶湖博物館「農村のくらし」展示から-
「里湖」を考えるときに大切なのは、
人間が自然の中に住まわせていただいているという意識で、
地域にあるものを資源と認めていかに持続的に活用していくかという技と工夫である。
2,3では、琵琶湖水域での採藻・採泥の様子をさまざまな資料から断片的に紹介してきたが、
ここでは、琵琶湖地域で育まれた小地域循環型の暮らしの一例として
琵琶湖博物館「農村のくらし」展示を紹介し、
「里湖」での人々の意識や暮らしの技・工夫を知る一助にしたい。
昭和39年5月10日午前10時、彦根市本庄町 冨江家の暮らしぶり
琵琶湖博物館の常設展示にある「農村のくらし」展示コーナーは、
彦根市本庄町にある冨江富吉さんの家屋を移築し、
昭和39年(1964年)5月10日午前10時の状態を忠実に再現した展示(写真2)である。

琵琶湖の北東に注ぐ愛知川下流部右岸の稲作地域の「水道がなかった頃の暮らし」
の実例を見せるという意図で製作された。
母屋だけでなく、生活用水を得る洗い場であるカワヤ(川屋)も実際に水を流した状態で展示し、
隣接するワラ小屋、汲み取り便所・灰小屋、鶏小屋も含めて再現している。
野菜を洗って包丁で刻む音や鶏の鳴き声など、効果音にもこだわっている。
この当時の冨江家は、前年に息子さんが結婚され、赤ちゃんが生まれたばかりであり、
老夫婦と若夫婦を含めて5人で暮らしている。
冨江家の水は、母屋の庭先の川屋(カワヤ)のヨコにある自噴水から
水槽へ流しためたものを使う(写真3)。

水槽は二つあり、自噴水から直接流れ込む一番目の水槽、
そのあふれた水が二番目の水槽へ流れ、さらにあふれた水は、
隣の家から流れる愛知川の伏流水の水路へと流れ、さらに隣の家へと流れていく。
飲み水は、一番目の水槽から汲んだ水をカメの中に炭を入れた水こしでこして、
母屋の囲炉裏の横にある水がめにいれて使う。
口すすぎは一番目の水槽、お茶碗は二番目の水槽、泥のついた野菜は水路と、
用途に応じて使う水場を変える。
水路にはコイが飼ってあり、水路で洗ったお釜や鍋の汚れ・ご飯粒などを食べてくれる。
水路の下流には柵が設置され、野菜屑の大きなものなどはここで引っかかり、
隣の家まで流れないよう工夫されている。ここで集めたものは、鶏のエサになる。
川屋に置いてある真新しい洗濯機は結婚祝いとして親戚から贈られたものだが、
水道のないと使いにくいので、洗濯は、タライにカワヤの水をくんで洗濯板で行った(写真4)。

汚れがひどいときは、石鹸や灰部屋の灰を洗剤として使った。
おむつなど、下のものを洗った水は、水路を汚さないよう小便だめに流した。
庭先の川屋の続きにはワラ小屋がある。
近隣に里山がないこの地域では、燃料の主役はワラであり、
風呂炊きも炊事もワラで賄わなくてはならなかった。
その隣に別棟で灰部屋と汲み取り便所がある(写真5)。

風呂やかまどの灰も灰部屋に移し、洗濯や田畑の肥料として使われた。
東南の隅に立地する屋外の便所は大便専用で、
床下にためた便が発酵しやすいよう工夫されている。
発酵させた便は手前の汲み出し口から柄杓で肥桶にくんで、
天秤棒で畑へ運んで肥料として使った。

母屋の玄関を入ると、すぐ右手に桶風呂が見える(写真6)。

この桶風呂は、県内の湖北・湖東地方に特有の形態で、
沸かすお湯の水量が少なく半身浴だが、桶内に蒸気をためて全身を温めることができる。
この桶風呂は限られた燃料を効率よく使うための工夫の産物である。
さらに燃料を節約するため、風呂の水は、
晴れている日に水場でくんだ水をたらいなどに薄くいれて、
太陽熱であたためて使っていた(ヒナタミズ)。
この風呂は冨江家にとってステータスシンボルであり、
風呂を沸かすと、風呂のない近所の方々が入りにきたという。
たくさんの人々が続けて入ったあとの残り湯もバケツに入れて展示されている。
この残り湯で雑巾を絞って、桶風呂や木の床を磨いたのだ。
使ったあとは小便とともに床下の小便だめにためる。
小便器は風呂の横にあり、男も女も使った。
小便だめにたまったものは、2~3日に一度、
玄関横の汲み出し口から汲み出して肥桶に入れて畑に運んだ。
土間を奥に進むと、左手にかまど(オクドサン)が見える(写真7)。

炊事は、この三口のかまどと一口のガスコンロで行った。
ちゃぶ台に並べられた料理は、
愛知川でとれたビワマスの煮魚、畑でとれた野菜の煮物とみそ汁、漬物など、
素材の自給率は高い。
食事に使う自分の食器は、飯台の自分の膳箱に入れて、食事の際に自分で取り出し、
使い終えた後は、きれいに平らげて最後にお茶をかけて、
洗うようにして飲み干して、自分の場所にしまった。
燃料のワラは、一旦、屋根裏のツシで乾燥させたものをワラ小屋に運び、
そこから風呂やかまどの近くにある燃料置き場に置いて使っていた。
水がめの水や燃料置き場のワラを補給するのは子どもの仕事である。
子どもは家事の担い手として大切な存在だった。
また、座敷の前栽にお地蔵さんが祀られたり、
かまどの近くに愛宕さんのお札が貼ってあったり、あちこちに神仏が祀られている。
展示室内の水路の上流をたどっていくと、
その水源には注連縄のある大きな岩と小さな祠が展示されている(写真8)。

人々はここに水神を祀ることで、水の源流を大事にすることを伝えている。
昭和39年、冨江家の人々は、麦わら葺の伝統的な家屋でこうした暮らしをしながら、
ちゃぶ台の近くのテレビで流れるアメリカのホームドラマのような暮らしにあこがれていた。
このあと、冨江家は念願の水道をひき、洗濯機で洗濯をするようになった。
初めは洗濯水を小便だめに流していたが、すぐにいっぱいになり、
周りの家も洗濯水を水路に直接流すようになったため、水路に流すようになっていったという。
その後、現在に至る生活の変容ぶりは、みなさんご存知のとおりである。
× × ×
【出典】
印南敏秀編,『里海の自然と生活-海・湖資源の過去・現在・未来』,みずのわ出版,2011
http://www.mizunowa.com/book/book-shousai/satoumi2.html
Ⅱ 湖・海の藻の過去・現在・未来
五 琵琶湖の水草利用と生活世界-多様な既存資料と琵琶湖博物館の紹介から
中藤容子
のうち265-270頁を抜粋
われわれ近江昔くらし倶楽部の活動の原点です。
彦根市本庄町の冨江家を移築し、昭和39年5月10日の様子を
忠実に再現したこの展示からは、
水道がなかったころの
自然の理にかない無理がなく、無駄がなく、全てを活かしきるゴミの出ないくらし
の様子がよくわかります。
このブログで、その様子を詳しく紹介しようと思いつつ、できずにいましたが、
昨年、みずのわ出版より刊行された『里海の自然と生活』の中で
私が分担執筆した原稿を、ここに掲載して、紹介することにしました。
#快諾くださったみずのわ出版さまに感謝します!
新しい年を迎えて、気持ちも新たに
「かつて」から学び、「いま」を見直し、「これから」を創る
近江昔くらし倶楽部の活動を進めていきたいと思います。
みなさま、どうぞ、よろしくお願いいたしますね!
× × ×
4 琵琶湖の生活世界-琵琶湖博物館「農村のくらし」展示から-
「里湖」を考えるときに大切なのは、
人間が自然の中に住まわせていただいているという意識で、
地域にあるものを資源と認めていかに持続的に活用していくかという技と工夫である。
2,3では、琵琶湖水域での採藻・採泥の様子をさまざまな資料から断片的に紹介してきたが、
ここでは、琵琶湖地域で育まれた小地域循環型の暮らしの一例として
琵琶湖博物館「農村のくらし」展示を紹介し、
「里湖」での人々の意識や暮らしの技・工夫を知る一助にしたい。
昭和39年5月10日午前10時、彦根市本庄町 冨江家の暮らしぶり
琵琶湖博物館の常設展示にある「農村のくらし」展示コーナーは、
彦根市本庄町にある冨江富吉さんの家屋を移築し、
昭和39年(1964年)5月10日午前10時の状態を忠実に再現した展示(写真2)である。

琵琶湖の北東に注ぐ愛知川下流部右岸の稲作地域の「水道がなかった頃の暮らし」
の実例を見せるという意図で製作された。
母屋だけでなく、生活用水を得る洗い場であるカワヤ(川屋)も実際に水を流した状態で展示し、
隣接するワラ小屋、汲み取り便所・灰小屋、鶏小屋も含めて再現している。
野菜を洗って包丁で刻む音や鶏の鳴き声など、効果音にもこだわっている。
この当時の冨江家は、前年に息子さんが結婚され、赤ちゃんが生まれたばかりであり、
老夫婦と若夫婦を含めて5人で暮らしている。
冨江家の水は、母屋の庭先の川屋(カワヤ)のヨコにある自噴水から
水槽へ流しためたものを使う(写真3)。

水槽は二つあり、自噴水から直接流れ込む一番目の水槽、
そのあふれた水が二番目の水槽へ流れ、さらにあふれた水は、
隣の家から流れる愛知川の伏流水の水路へと流れ、さらに隣の家へと流れていく。
飲み水は、一番目の水槽から汲んだ水をカメの中に炭を入れた水こしでこして、
母屋の囲炉裏の横にある水がめにいれて使う。
口すすぎは一番目の水槽、お茶碗は二番目の水槽、泥のついた野菜は水路と、
用途に応じて使う水場を変える。
水路にはコイが飼ってあり、水路で洗ったお釜や鍋の汚れ・ご飯粒などを食べてくれる。
水路の下流には柵が設置され、野菜屑の大きなものなどはここで引っかかり、
隣の家まで流れないよう工夫されている。ここで集めたものは、鶏のエサになる。
川屋に置いてある真新しい洗濯機は結婚祝いとして親戚から贈られたものだが、
水道のないと使いにくいので、洗濯は、タライにカワヤの水をくんで洗濯板で行った(写真4)。

汚れがひどいときは、石鹸や灰部屋の灰を洗剤として使った。
おむつなど、下のものを洗った水は、水路を汚さないよう小便だめに流した。
庭先の川屋の続きにはワラ小屋がある。
近隣に里山がないこの地域では、燃料の主役はワラであり、
風呂炊きも炊事もワラで賄わなくてはならなかった。
その隣に別棟で灰部屋と汲み取り便所がある(写真5)。

風呂やかまどの灰も灰部屋に移し、洗濯や田畑の肥料として使われた。
東南の隅に立地する屋外の便所は大便専用で、
床下にためた便が発酵しやすいよう工夫されている。
発酵させた便は手前の汲み出し口から柄杓で肥桶にくんで、
天秤棒で畑へ運んで肥料として使った。
母屋の玄関を入ると、すぐ右手に桶風呂が見える(写真6)。

この桶風呂は、県内の湖北・湖東地方に特有の形態で、
沸かすお湯の水量が少なく半身浴だが、桶内に蒸気をためて全身を温めることができる。
この桶風呂は限られた燃料を効率よく使うための工夫の産物である。
さらに燃料を節約するため、風呂の水は、
晴れている日に水場でくんだ水をたらいなどに薄くいれて、
太陽熱であたためて使っていた(ヒナタミズ)。
この風呂は冨江家にとってステータスシンボルであり、
風呂を沸かすと、風呂のない近所の方々が入りにきたという。
たくさんの人々が続けて入ったあとの残り湯もバケツに入れて展示されている。
この残り湯で雑巾を絞って、桶風呂や木の床を磨いたのだ。
使ったあとは小便とともに床下の小便だめにためる。
小便器は風呂の横にあり、男も女も使った。
小便だめにたまったものは、2~3日に一度、
玄関横の汲み出し口から汲み出して肥桶に入れて畑に運んだ。
土間を奥に進むと、左手にかまど(オクドサン)が見える(写真7)。

炊事は、この三口のかまどと一口のガスコンロで行った。
ちゃぶ台に並べられた料理は、
愛知川でとれたビワマスの煮魚、畑でとれた野菜の煮物とみそ汁、漬物など、
素材の自給率は高い。
食事に使う自分の食器は、飯台の自分の膳箱に入れて、食事の際に自分で取り出し、
使い終えた後は、きれいに平らげて最後にお茶をかけて、
洗うようにして飲み干して、自分の場所にしまった。
燃料のワラは、一旦、屋根裏のツシで乾燥させたものをワラ小屋に運び、
そこから風呂やかまどの近くにある燃料置き場に置いて使っていた。
水がめの水や燃料置き場のワラを補給するのは子どもの仕事である。
子どもは家事の担い手として大切な存在だった。
また、座敷の前栽にお地蔵さんが祀られたり、
かまどの近くに愛宕さんのお札が貼ってあったり、あちこちに神仏が祀られている。
展示室内の水路の上流をたどっていくと、
その水源には注連縄のある大きな岩と小さな祠が展示されている(写真8)。

人々はここに水神を祀ることで、水の源流を大事にすることを伝えている。
昭和39年、冨江家の人々は、麦わら葺の伝統的な家屋でこうした暮らしをしながら、
ちゃぶ台の近くのテレビで流れるアメリカのホームドラマのような暮らしにあこがれていた。
このあと、冨江家は念願の水道をひき、洗濯機で洗濯をするようになった。
初めは洗濯水を小便だめに流していたが、すぐにいっぱいになり、
周りの家も洗濯水を水路に直接流すようになったため、水路に流すようになっていったという。
その後、現在に至る生活の変容ぶりは、みなさんご存知のとおりである。
× × ×
【出典】
印南敏秀編,『里海の自然と生活-海・湖資源の過去・現在・未来』,みずのわ出版,2011
http://www.mizunowa.com/book/book-shousai/satoumi2.html
Ⅱ 湖・海の藻の過去・現在・未来
五 琵琶湖の水草利用と生活世界-多様な既存資料と琵琶湖博物館の紹介から
中藤容子
のうち265-270頁を抜粋