2024年01月03日

サイクリング部の絆(結論加筆) 2006年06月10日04:34

サイクリング部で同回だったYくんから、動揺するニュースをもらい、
書かなくてはならない気がして、長い長い個人的経験をしたためました。
重い話も含みますので、覚悟してお読みくださいませ。

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私は大学時代、体育会サイクリング部に所属していた。
中学のときは図書委員、高校のときは演劇部。今度は身体を動かすスポーツをしたいと体育会の冊子をめくり、一番軟弱そうなのを選んだのだ。

部室は、老朽化した建物の、窓から入ったところにあった。
(この窓から入る古い建物は、小さなころから何度も夢の中に出てきたものだった)

自分の乗る自転車(ツーリングタイプのランドナー)は、自分で部品を選び、組み立ててつくる。長期ツアー中のパンクや故障は、自分で直さなくてはならない。ランドナーはばらして袋につめて電車で運ぶ(輪行する)ことができる。全国あちこちの駅に降り、組み立てたランドナーにテントや大なべ、火器(ホエーブス)を積んで、自炊しながらキャンプ生活するのがメインの活動(ツアー)だった。

私の入学した年には30人近い新入部員があった。新歓コンパでは偶然にも今の連れ合いと同じテーブルで、顔が似ているので先輩に「おまえらは兄妹やろ」と言われ、そういうことになった。

当時はバブリーな時代で、先輩たちも羽振りがよく、お酒はあびるように飲まされた(男たちは)。つぶされてマグロ部屋に運ばれた1回生の介抱をするのが女の仕事だった。コンパが終わると部室に搬送し、それから女子部員は先輩たちにつれられ、ディスコやカラオケ、おしゃれなバーへと2.3.4...次会に連れて行ってもらった。

私は熱心な部員ではなかった。
毎日のトレーニングや、毎週、毎月行われる遠出もときどきしか参加しなかった。飲み会に誘われても断ることが多かった。人つきあいも苦手だった。(広島弁も3回生になるまで抜けなかったしね)

1回生が終わろうとするころ、面倒見のよい同回の女子部員のPさんに退部の相談をしたときに慰留された。彼女と一緒にやっていきたいと素直に思い、しばらくがんばってみようという気になった。

それからまもなく、我々が3回生の夏に行われる西日本サイクリング部連盟(西サ連)の大会の主管校をひきうけるかどうかの投票があった。

西サ連の大会には毎年200人以上の参加者が集い、10人くらいの班に分かれて、1週間以上にわたるツアーを行う。その大会の主管を引き受けるかどうか、それを先輩ではなく、そのときに主力となる私たちの投票で決めることになったのである。

久しぶりに出たミーティングが、たまたまその投票の日だった。

私は「やったら面白いんちゃう」という気軽な気持ちで「やる」方に投票した。開票してみると、1票差で「やる」ことに決まった。

みんなが大変なことになったと大騒ぎしているのを見て、これは私のせいだ、私の1票でやることになったんだから、大会は私がしっかり支えなくてはと腹がすわった。

2回の夏には、一念発起して、40日ほど北海道ツアーをした。
前半の2週間ほどは一人で走った。小樽から札幌、登別、苫小牧、富良野、夕張、名寄、豊富。そこで、仲間と合流。その後、稚内、利尻、礼文、旭川、美瑛、弟子屈、網走、羅臼、根室、厚岸。ここで皆と分かれて帰路へ。(←かなりコースは怪しい)

北海道入りして理髪店で刈り上げにしてもらい、銭湯では「男湯はあちらです」と言われ続け、ど根性と自信をつけた10代最後の夏だった。

#ちなみに連れ合いと一緒に行った最初で最後のツアーだった。彼は旭川で合流し、その日は彼が探してくれた「銭湯の脱衣場」に泊まった。その後、彼の足に大鍋にわかした熱湯をぶちまけ、痛い「兄妹のちぎり」を交わしたことも思い出す。このときはお互い恋心なんて皆無。というか、その後も今まで彼に対して恋心なんて抱いたことはない.....な。


そんなツアーの傍ら、西サ連の大会準備も着々と進められた。
3回生になって、大会の名前は「琵琶湖でポン」と決まり、おそろいのポロシャツも作った。

参加者も募集し、20くらいの班が決まり、部員は各班の班長として入り、その班の計画を練った。
私は総務班として他の10名くらいの部員とともに滋賀県のベースに残ることになった。

7月下旬、ベースに参加者が集まり、大会がスタートした。

.....数時間後、ある班の班長から電話があった。
「部員が溺れた。救急車を呼んでいる」

ベース内に緊張が走る。私は「あっ」と思った。このシーンはデジャブだった。
「とにかく、班の全員がそろっているか確認して。他の部員の安全を確保して」

そして、なぜか冷静に「電話の記録をとりましょう」とノートに時間と内容などを記す表をつくる。

何度か電話のやりとりがあり、ベースの人間も病院に向かう。

......結果、うちの1回生のTくんと福山の1回生の子が亡くなった。

「今回の大会は中止。すべての班にベースに帰るよう連絡しよう」

各班の連絡状況を記す用紙をつくり、手分けして連絡をとる。
混乱しないよう、情報が錯綜しないよう。

少しずつベースに帰ってくる。いろんな不満の声もあがる。
夕食の弁当の手配。200個。田舎町であちこちのお弁当やに走る。

そうしていると、マスコミから電話。
かかってきたと思ったら、次から次へとかかってくる。
切れそうになるのを抑えて、誠意をもって丁寧に回答する。

..........................。とにかく、大会は終わった。


その後、Tくんの葬儀に参列。
ご両親の無念さ。なんで死んでしまったのか。

調査報告をつくるべく、班員が全員集められ、泊まり込みで聞き取り。
他大学の上回生の提案でミニトライアスロンをやることになり、余呉湖で泳いだときの出来事だった。
電話の詳細な記録も入れた厚い調査報告が夏の終わりに完成した。

うちの大学のTくんは、琵琶湖の北端の中世のおもかげが残る集落に葬られた。私は、滋賀県に就職することになり、すごく深い縁を感じた。
大会の実行委員長だったNくんは毎年毎年、命日のころ墓参した。7回忌の年に私もいっしょに行くことになった。「これで最後にしようと思う」と彼は語った。その後、息子1が小さいころ、家族みんなで墓参した。これは私の役目のような気がする。

連れ合いはうちの代の副将(副キャプテン)だった。
同棲することになって彼の下宿の荷物を整理していたときに、大会の資料が2.3箱出てきた。彼の下宿が報告書をつくるときのたまり場になっていたそうだ。
先日、このときの話をすることがあり、そのときに先輩のありがたさをしみじみと語っていた。先輩が相談にのってくれ、カンパをしてくれたからこそ乗り切れた。このつながりを残しておきたいと思い、当時、まだ珍しかったメーリングリストを作ったのだという。
(このメーリングリストは阪神大震災のときに大活躍した!)

さらに、私は、部員が代々働いている喫茶店でアルバイトしていた。
(当時の主将(キャプテン)も働いていて、バイトを探していた私に紹介してくれたのだ。怖かった?ので、断る余地はなかった)
当時4回生だった憧れの女子先輩のSさんに仕込んでいただいた。最初の2年はいつやめようかと毎日辛かったが、2回の夏を終えてから変わったように思う。結局、大学を離れるまで8年間働いた。

マスターとおくさんには子どもがなく、我々部員を子どものようにかわいがってくれた。今でも京都の父母だと思っている。実の親が教えてくれなかった人とのつきあい方や人生の生き方、そしておやじギャグまで、仕込んでもらった。今でもつきあいがあり、ときどきお店を訪れると、先輩方や後輩たちの話をしてくれる。

ここで、働いていたおかげで、ずいぶん上の先輩から現役の後輩まで、うちの部員と広くつながることができた。

こんな体験を共有したサイクリング部の仲間たちは、魂のレベルでつながっている仲間だと実感する。
(ちなみに、うちの代の女子6名のうち、Pさん以外の5名が部内結婚である。)

こんな経験が、こんな仲間が、私の人生を支えてくれている。

そして、この経験こそ、
前世でソウルメイトを不幸におとしめた、そのカルマを解消する出来事だったのだ!!
(インド占星学によると、私は親友をささいなことで不幸にしたため、今世では親友をつくることが困難だと指摘されていた)

#この結論はすでにおねさんの日記のコメントに書いていたことだった。
今、このタイミングで思い出せたことに運命を感じる。




.....ということを、最後まで読んでくださったあなたと、
シェアできることを、とてもとてもうれしく思います。

ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございます!!!




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コメント おね2006年06月10日 05:54
こういう体験って、シェアするのがすごく重たくて大変なのは
すごーくよくわかります。
それでも、これをシェアしてくださったにゃかてぃさんの、
愛と勇気に感謝しますm(__)m

にゃかてぃさんがサイクリング部に入られたのも、
1票差で決まったのも、すべては「道」の一部。
(はたから見たら、こういう意見て「何考えてるんだ」的なんでしょうけどね^^;)

にゃかてぃさんが誰を責めることもなく、
自分を責め立てることもなく、
そういうスタンスですべての事実を受け止めていることが
私はとても素晴らしいと思っています。
事実は事実以上の何者でもなく、
ただ起こるべくして起こっているだけなのだから。

お亡くなりになった方の無念とか
周囲の方の果てしない悲しみとか、
そのあたりもすべて含めて…起こっているだけ、のこと。

そんなにゃかてぃさんは、
やっぱり「人間的に大きなおっさん」への道を
着実に歩んでいらっしゃると思います^^
…「幅の広いおっさん」目指して、私もがんばるぞー。

ありがとうございましたm(__)m

コメント ようちゃん2006年06月10日 11:23
おねさん、コメントありがとう。

「人に歴史あり」(←ゆっけさんの言葉)です。
私の今世は、かなり深く濃い人生なんだと思います。
(「試練100%」ほどではないけど「試練80%」くらいではあると思う)

今回の話は、その中の一つ(確かに最も濃い話のひとつ)であって、
すでに自分の中では終わっていることなんだけど、
今、ここでみんなにシェアしておきたくなったのです。

動揺するニュースを確かめなくてはなりません。
みなさん、私に勇気をください。そして、祈ってください。

ひややん2006年06月11日 18:40
大会で、事故が起こったのは残念でしたね。でも、その時の友達と今でも連絡をとっているというのが救いのような気がします。その事故を忘れること無く、残された者が精一杯生きていくことが大切ですね。
大変なことを一緒に乗り越えた友達って、本当にいいものですよね。私は、運動部も途中で辞めたりして、そんな友達があまりいないので羨ましいです。友は大切にしないといけませんね。

コメント ようちゃん2006年06月11日 18:57
ひややんさんの言葉の一言一言が心に響きます。ありがとう。

サイクリング部のコミュを今日、見つけました。
(mixiに入った当初検索した時にはなかったんです)

書き込みを読んでいたら、
あれから十数年たった今でも、部室に亡くなったTくんの写真が
飾ってあるとのこと。

北陸線で余呉湖を過ぎる時にはお祈りするという後輩の書き込みも
ありました。

あのときカンパをしたという先輩の書き込みもありました。

今でもなお、あの事故が、代をこえた部員の心のつながりを
作ってくれていることに、改めて気づきました。

ほんとうに、ありがたいことです。

ひややんさんは、大変なことを共有した私の深い友達ですよ!
これからも一緒に乗り越えて行きましょうね。
どうぞ、よろしく!!
ようちゃん


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