2011年12月07日

「祈り」とは何か?(森田貴英さんのツイート)

映画「降りてゆく生き方」の監督、森田貴英さんのTwitterでの今朝のつぶやきが
心に響いたので、ここに掲載しておきます。

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moritatakahide 森田 貴英

「祈り」とは何か?私はその本質を、3・11の大震災のときに初めて見た気がした。

普段は、都会で何不自由なくすごし、大過なく人生を過ごせると信じていた人々。しかし、3・11の震災は、想像を超える被害を生ぜしめ、東京にも甚大な影響を及ぼした。外国人は大挙して東京から逃げ去って行った。それは「東京には未来はない」と思わざるを得ない状況であった。

大地震・大津波・原発事故。日本経済は破綻し、東京に未来はないと思しき絶望的な状態。そのとき、都会の人々は何をし始めたか?それは「祈り」であった。

普段なら到底、「祈り」とは無縁な合理的な都会人たちが、次々に祈り始めていた。私はその光景に驚いた。祈りとは自分の願いを叶えるためのものであると思っていたが、違った。祈りとは、「人間がどうすることもできない絶望的な状況の中で、人間が唯一出来る営為」なのであった。

大地震や原発事故といった、自分ではどうにもできない大災害や自然の猛威の前に、徹底した無力感を覚える。しかし生きることはあきらめられない。だとすると、大災害におさまってもらう以外に方法がない。そのときに人間は「祈る」のである。

「祈り」とは「無力な自分」という「現実」を完全に受容した行為である。大災害など怒らない、自分には関係がない、大過なく人生を幸福に遅れる。そういう考えが、事実に反した妄想であり、非現実的なものであったことを、完全に認識した上での行為なのである。つまり極めて「現実的な行為」なのだ。

「現実を受け入れよう」とよく言う。その典型例はあの3・11のときの東京の人々の状況であった。「人間は無力である」という現実を受け入れざるを得なかった。

「祈り」とは「無力」という「現実」の認識があって初めて成立する。かつての「祭り」もまさに「祈り」であったのだろう。何も作れず、生み出せない人間は、全てを自然から得ていた。つまり、「無力」なのである。それゆえ、「祈り」が生まれ、「祭り」が生まれた。

「自分は無力ではない」と思ってしまっている人間は「祈り」ができない。無力さを認めない人間の祈りは「妄想」でしかない。現代の日本人の祈りのほぼ全ては「妄想」である。だから心は安らがない。

「自分の願いをかなえるための祈り」というものは、単なる「我欲の発露」である。「願望」と「祈り」とは全くの別物なのである。

田舎のおじいさん・おばあさんが手を合わせているのは、「願望をかなえる」ためではない。「ありがたい」という感謝の意の表明なのである。それは「自分は無力である」という事実を暗黙の前提にしている。

「メシが食えて当然」「息がすえて当然」「寝るところがあって当然」と思っている人間は、「自分は無力である」とは思っていない。従って、「感謝」もなく「祈り」もない。

大事なことは、「私は無力な存在である」という「事実」を認識することだ。生きていくうえで必要なもの、空気、日の光、水・・・何か一つでもあなたに作れるものはあるか?ないだろう。つまりあなたは「全くの無力な存在」なのである。

あなた、太陽に一円でも支払ったことはありますか?ないでしょ?太陽のために何か役立ったことある?ないよね。それなのに、太陽はあなたにいまこの瞬間、生きるためのエネルギーをくれているよ。

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